数あるグッズの中でも、レコードという存在は昔から特別なポジションを占めてきました。
ぱっと見は、ほかのグッズと同じく、ゲームやアニメ、映画の体験を少しだけ延長してくれるおまけのようなものに見えるかもしれません。
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けれど実際には、それだけではありません。ひとつの作品であり、記憶を宿したオブジェであり、ときには「文化的遺産」と呼びたくなるような存在なのです。
レコードとは、「音を聴くための円盤」以上のものです。
探し求め、発売を待ち、やっと手に入れたら大切に抱きしめたくなるような、追いかける対象です。
サインをもらったり、ライブの記念になったり、ときにはジャケットそのものを一枚の絵画のように飾ることもあります。
人によっては、それは何年もかけて続いていく情熱であり、本物の「宝探し」でもあります。
私もその道を歩んできました。幸運もあれば……正直に言えば、かなりのフラストレーションも。
ほとんど市場に出てこないレコードを何年も追い続け、10年、15年のあいだにオークションで一度見かけただけ…というタイトルもありました。
そうした壮大な楽曲たちのおかげで、私は一生忘れられないような魔法のコンサートを何度も体験することができました。
中には少しがっかりした公演もありましたが、それでさえ不思議と、私の中に大切な痕跡を残しています。
この記事では、私自身の「個人的な年代記」を共有したいと思います。ファイナルファンタジーからジブリへ、さらに聖闘士星矢や進撃の巨人へ――レコードがどうやって私をその世界へ連れていってくれたのか。
なぜ「グッズ」の世界で、レコードの話をするのか?
一般的に「グッズ」と聞くと、キーホルダーや缶バッジ、手頃なフィギュアといった、小さくて気軽に手に入るアイテムを思い浮かべる人が多いでしょう。作品の余韻をほんの少しだけ延ばしてくれる、ちょっとした記念品。そこに特別な芸術性を求める人はあまりいません。
でもレコードは、その次元を大きく飛び越えてきます。
まず、フォーマットそのもの。大きくて、視覚的で、どこかレトロで、儀式的ですらあります。
ジャケットは強烈に目を引きます。CDやデジタルデータには決して出せない「存在感」がそこにはあります。
次に、音質。溝に針を落とし、ターンテーブルが回り出すその儀式の中で、どんなストリーミングでも再現しきれない「質感」と「奥行き」が立ち上がってきます。どんな機材を使おうとも、それは同じです。
そして最後に、希少性。サントラ系のレコードは限定生産であることが多く、中には数百枚しかプレスされていないものもあります。
その結果、キーホルダーが「ささやかなウインク」だとしたら、レコードは「作品そのものの断片」と言える存在になります。
音を求めて買う人もいれば、オブジェとして欲しい人もいるし、純粋にコレクション目的の人もいます。
私の場合は、その三つがちょうどいいバランスで混ざり合った場所をレコードに見つけました。

はじまりのクエスト:ファイナルファンタジーと植松伸夫
私が「派生レコード」の世界に本格的に沈み込んでいったきっかけは、ファイナルファンタジーでした。
正確に言うと、ある一枚――いや、一箱のレコードに取り憑かれたことが始まりでした。2013年に発売された『FINAL FANTASY VINYLS』ボックスです。
そのボックスを、私は何年も追いかけ続けました。
滅多に出てこないオークション。出てもほとんど落とせず、価格ももはや正気とは思えないレベル。
でも、そういうところにこそコレクションの美しさ――そして残酷さ――があります。フラストレーションと高揚感が、永遠に交互にやってくる世界。
ようやくそのボックスを自分のコレクションに迎え入れたとき、それは単なる「買い物」ではありませんでした。
長いクエストの終わり、という感覚に近かったのです。何十時間もかけて隠しボスを倒したときに覚える、あの達成感にどこか似ていました。
このボックスは、単に「レコードが何枚か入っているセット」以上のものでした。私の中にある忍耐と情熱、そして植松伸夫の音楽との、個人的で親密なつながりそのものを象徴する存在だったのです。
そのつながりが初めて「形」を持ったのは、「Distant Worlds」のコンサートのときでした。
私にとって初めての、ファイナルファンタジーのフルオーケストラ公演。生のオーケストラで「片翼の天使」やチョコボのテーマを聴いたあの瞬間は、今でもはっきりと思い出すことができます。
けれど本当のクライマックスは、その数時間後にやってきました。植松伸夫本人が、私のレコードにサインをしてくれたのです。
その瞬間、レコードはただの「モノ」から、お守りのようなタリスマンへと変わりました。
ひとつのグッズだったものが、一気に「個人的な聖遺物」の域にまで高まったのです。


宝探しの「山」と「谷」
コレクションの道のりが、穏やかな川の流れのように順調に続くことはありません。誰もが魔法のような瞬間を夢見ますが、現実はもっと複雑で、グレーなことも多いのです。
それを痛感したのが、2022年にグラン・レックスで開催された「SAINT SEIYA SYMPHONIC ADVENTURE」でした。
このコンサートを、私は心待ちにしていました。
子どもの頃のノスタルジー、伝説的なオープニング曲の記憶、そして壮大なシンフォニック体験への期待。
普通では味わえない体験ができると信じて、200ユーロ以上するVIPパスまで購入していたほどです。
それなのに、待っていたのは大きな失望でした。
グッズのクオリティは低く、音響も物足りず、氷河のテーマでは歌手が明らかに苦しそうで、全体としても迫力に欠けていました。
そこへ追い打ちをかけるように、新型コロナの影響でイベント運営自体も大きく揺さぶられていました。
正直なところ、このチケット代を思うと、なかなか気持ちの整理がつきませんでした。
けれど、宝探しには不思議なところがあります。一見「ハズレ」に思える出来事が、あとから「当たり」に変わることがあるのです。
その日、私は「Pegasus Fantasy」のボーカル、山田信夫さん(今年この世を去られました)に会うことができました。
彼が私のレコードにサインを書いてくれた瞬間、またしてもすべてがひっくり返りました。
あのコンサートの微妙さよりも、そのレコードとサインの記憶の方が、ずっと強く私の中に残ることになったのです。
考えてみれば、これこそがコレクションの本当の魔法なのかもしれません。うまくいかなかった瞬間さえ、時間とともに意味を変えてしまう力。

音楽がタリスマンになるとき:久石譲とジブリ
アニメをあまり知らない人にさえ届いてしまう作曲家がいるとしたら、その一人は間違いなく久石譲でしょう。
ジブリ作品のために書かれた彼の音楽は、今や世代も国も越えた「共通言語」のような存在になっています。
久石譲のコンサートに行くというのは、ほとんど宗教的とさえ言いたくなる体験です。
オーケストラが『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』の最初のフレーズを奏で始めた瞬間、会場全体を大きな感情の波が包み込みます。
そこで私たちが聴いているのは、ただの音楽ではありません。自分の子ども時代の一部であり、みんなで共有している想像力の断片です。
そんな魔法のような時間を、私は何度か生で味わうことができました。
そしてまたしても、サイン入りのレコードを抱えて帰ることになりました。
このレコードは、もはや単なるディスクではありません。
感情そのものが封じ込められた、ひとつの「聖遺物」です。
そのジャケットを見るたびに、あの会場の空気、周りにいた人たちの表情、同じメロディーに息を呑んでいた何千人もの静かな一体感が、鮮やかに蘇ってきます。
それは、「レコードは単なる再生媒体ではない」という、何よりの証拠です。
記憶と継承がぎゅっと濃縮された、小さなカプセルのようなものなのです。

すでに書かれた未来:進撃の巨人と終わらないコレクション
想像がつくと思いますが、コレクションに「終わり」はありません。
常に「次の一枚」「次のイベント」を待ちながら生き続けています。
あと数週間で、進撃の巨人のシンフォニックコンサートに行く予定です。
サントラの感情的な破壊力は、すでによく知っています。壮大で、暗くて、物語の残酷さと生々しさを支える楽曲たち。
アニメ本編を見終えたのも、つい数日前のことです。
オーケストラが「紅蓮の弓矢」や「Call Your Name」を演奏し始め、会場全体が一斉に震え出す光景が、すでに頭の中に浮かんでいます。
その日、サイン入りかどうかは別として、レコードを手にして帰れるのかどうかはまだわかりません。
けれど、その瞬間が私の「個人的年代記」に新しい一章を加えることだけは、もう確信しています。
宝探しとは、そういうものでもあるからです。まだ起きていないのに、すでに心のどこかに書き込まれている未来。先に感じてしまう感情。
一枚一枚のレコードは、やがて「過去」のピースになります。
けれど、ひとつひとつのコンサートは、必ず「明日」への約束になるのです。
レコード vs ストリーミング:生きた記憶としてのオブジェ
Spotify や YouTube を開けば、サントラなんてすぐ聴けるのに――それでもなぜ、わざわざレコードを集めるのか?
答えはシンプルです。一言で言えば、「記憶」。
ストリーミングは便利ですが、手触りのない存在です。そこには「痕跡」が残りません。
今の社会では、私たちはコンテンツを次々と消費しては飲み込み、そしてすぐに別の何かへと移っていきます。
レコードは、その音楽を「物質」に固定します。
- 音――より温かく、有機的で、自然と「ちゃんと聴く」姿勢を求めてきます。プレイリストのように、気軽にスキップすることはできません。
- 儀式――ジャケットから盤を取り出し、ターンテーブルに置き、針を落とし、A面が終わったら裏返す。その一つひとつの動作が、音楽に対する敬意と集中を生み、「鑑賞」という行為を小さなセレモニーに変えてくれます。
- オブジェ――ジャケット、イラスト、封入物。手触りや紙の質感を含め、そのすべてが視覚的・触覚的・感情的な物語を語ってくれます。
- 希少性――500枚限定でプレスされたレコードは、簡単には代わりがききません。そこには文化的にも個人的にも、固有の価値が宿っています。
ストリーミングが音楽を「均質化」していくのに対して、レコードは一枚一枚を「特別なもの」にしてくれます。
それぞれの盤は、大きな文化的パズルを形作る、唯一無二のピースなのです。


結論:レコードは「モノ」を超えた、小さな歴史の断片
見た目だけで言えば、ゲームやアニメ、映画のレコードも、ほかのグッズと同じように見えるかもしれません。
けれど、それを集め、日々の中で「生きている人間」にとっては、まったく別の意味を持つようになります。
それは同時に、こんな存在でもあるのです。
- 個人的な思い出(体験したコンサート、もらったサイン、やっと終わった長い探求)、
- 普遍的な作品そのもの(ファイナルファンタジー、ジブリ、聖闘士星矢、進撃の巨人)、
- 文化的な聖遺物(希少で、感情と歴史が染み込んだオブジェ)。
レコードのコレクションとは、決して「ただ集めること」ではありません。
それは、終わりのない宝探しです。忍耐と、悔しさと、喜びと、発見に満ちた旅。
一枚一枚のレコードは、生きた記憶の断片であり、ただのグッズを「本物の遺産」に変えてしまう力を持っています。
そして、もしかしたらこれこそが、この passion のいちばん美しいところなのかもしれません。音楽を「生きた記憶」に変え、一枚一枚のレコードを、今もどこかで震え続ける世界へとつながる小さな扉にしてくれるところ。
