アニメーションアート(セル画、動画、原画など):より可視化され、より高額になった。だが、より尊重されるようになったとは限らない
アニメーションアートには、以前よりも多くの人と資金、そして欲望が集まるようになった。そこにひとつの「認知」を見る人も多い。だが、私には別のものも見えている。長いあいだ、痕跡であり、記憶であり、創作の断片として見られてきた作品群が、まず何よりも資産として扱われ始める転換点だ。問題は、作品に高値がつくことではない。問題は、市場が単に価格を決めるだけでなく、作品の見方そのものまで規定し始めるときに生じる。そうなると、コレクターはただ買う、売る、保管するだけでは済まない。何を守るのかを選ばなければならなくなる。
Sommaire
もちろん、コレクターが市場価格に合わせる権利はある。場合によっては、そうせざるを得ないことさえある。すでに痛い目を見たことがあるなら、きちんとした価格で譲った相手が数週間後に法外な値段で転売していたのを見たことがあるなら、もう無邪気さは美徳ではない。自分を守ることは、少しも不道徳ではない。安く買いたたかれることを拒むのも、恥ずべきことではない。
問題が始まるのは、市場が本来の枠組みではなく、こちらが受け入れがたい精神性によって動き始めたときだ。

可視性は増しても、敬意まで増したとは限らない
長いあいだ、アニメーションアートは比較的ひっそりとした、ほとんど見えない世界だった。価格差もすでにあったし、日和見的な動きも存在していた。けれど当時はまだ、作品への魅了、あるシリーズへの執着、あるいは一本の線への愛情から、この世界に入っていくことができた(関連記事:「アニメの原画類――たった一本の線が、私のコレクション観をどう変えたか」)。
多くのコレクターは、いまほど攻撃的ではない空気のなかで、こうした品々との関係を築いてきた。まだ現代の消費市場の反射的な論理に染まりきっていなかった時代だ。
だが残念ながら、いまこの世界は変わってしまった。
コレクターたちの声を聞くと、出てくる話はだいたい同じだ。露出の増加、競争の激化、ビジネス化、TCG的な発想、転売、そして露骨な投機。もちろん、そこに留保をつける人たちもいるし、それは正しい。情熱そのものが消えたわけではない。だが、それは見えにくくなった。希少性がますます価格を通して読まれる空間のなかに、情熱が埋もれてしまっているからだ。
ここにこそ、本当の転換がある。起きているのは情熱の単純な消滅ではない。予想していなかった別の読み方と、情熱が競合させられているということだ。
市場が窮屈になっているのは、良い品が以前ほど動かなくなっているからでもある
長く集めてきたコレクターたちと話していると、もうひとつ強く浮かび上がってくることがある。問題は、価格が上がっていることだけではない。良い品そのものが、以前より市場を動かなくなっているのだ。
良い品はますます少なくなっている。手元に留めておかれる。それ自体は自然なことだ。あるいは再び市場に出てきたとしても、現実離れした価格がつけられ、多くのコレクターがその時点で「もう追えない」と悟る。そうなると、市場は単に高くなるだけではない。もっと閉じたものになり、そして強いフラストレーションを生む。
ここは重要な点だ。市場は価格が高くても、品物が一定の頻度で流通している限り、生きた場であり続けることができる。だが、価格上昇、供給の希少化、強い品の抱え込み、常軌を逸した価格表示といった条件が重なると、それは単なる価値上昇ではなくなる。そこでは、この世界にまだ参加できる者と、少しずつ振り落とされていく者とが、静かに選別され始める。
このはっきりと感じ取れる苛立ちの背後には、多くの場合、自分が愛着を持ってきた世界から少しずつ追い出されていくことへの恐れがある。

市場価格で売ること自体が問題なのではない
ここは正直に書いておかなければならない。でなければ、この記事はきれいごとで終わってしまう。
作品を市場価格で売ること自体は、それだけで責められるものではない。それは情熱への裏切りでもない。自分の持ち物の価値を理解し、ばかげた安値で手放すことを拒むコレクターが、必ずしも有害な意味での「ビジネス」をしているわけではない。単に、仲介者や日和見的な人間の次の犠牲者になることを拒んでいるだけかもしれない。
この違いは決定的に重要だ。だからこそ、あえて強調しておきたい。
問題なのは、自衛しているコレクターではない。問題なのは、利益しか見ていない人たちだ。買うときには過小評価し、売るときには希少性を誇張し、文化的な領域に投資の論理を持ち込み、最終的には、あらゆる品がまず収益性で測られるべきだという発想を押しつけてくる。
言い換えれば、市場から身を守ることと、市場そのものの思考で動くことは同じではない。

その物が、本来の姿として見られなくなったとき
だからこそ、本当の危険は経済的なものだけではない。文化的な危険でもある。
アニメーションアートとは、全体として見れば、制作の断片であり、物質として残った痕跡であり、視覚の歴史の一部でもある。レイアウト、原画、セル画、背景、美術設定、公式複製物――それぞれが、作品そのもの、制作工程、その時代、そして物としての質感に対する固有の関係を帯びている。
こうした品を、値上がりするかどうかだけで捉えるなら、その本質は歪められ、壊されていく。
もちろん、相場や需給、希少性について語ること自体はできる。そうしたものが存在しないふりをするほうが不自然だ。だが、その見方が支配的になった瞬間、物そのものの重みは薄れていく。創作の証人として見られなくなり、金融的な期待を投影するための器へと変わってしまう。
そのとき、市場は価格を押し上げながら、コレクションという行為の意味そのものを貧しくしていく。

本当の問題は新参であることではなく、悪い反射を持ち込むことだ
もうひとつ避けるべき落とし穴もある。新しく入ってきた人を、みな価格上昇の犯人にしてしまうことだ。
いまアニメーションアートの世界に入ってくること自体は問題ではない。生きた場には、新しい視点、新しいコレクター、新しい感性が必要だ。最近この世界を知った人でも、真剣さと好奇心、忍耐、敬意を持って入ってくることはできる。
問題が始まるのは、別の場所で身につけた反射のまま入ってくるときだ。価格だけで考えること、投資家のように語ること、見かけの希少性だけで質を測ること、内在的な価値と表示価格を混同すること、そしてあらゆる文化的対象が最終的に利回りの論理へ回収されるのを当然とみなすこと。
そこまでくると、もはや世代や古参・新参の問題ではない。倫理の問題である。
だからこそ、あの「ブーマー」呼ばわりのような軽蔑的な言い方には強く苛立つ。それは、本来は市場を生きてきた経験であり、繰り返されてきた歪みの記憶であり、ある世界が転換するときに何が起きるのかをより細かく理解していることなのに、それを安易な世代論の決まり文句へと変えてしまうからだ。
市場を批判する側も、必ずしもそこから自由ではない
それでも、ある程度の冷静さは保たなければならない。この変化のなかで、誰かが完全に白で、誰かが完全に黒というわけではない。
価格高騰を批判する人のなかにも、自分がその価格帯から排除されているからこそ不満を抱いているだけで、もし買えるだけの資金があれば市場価格で買うことに何の抵抗もないだろう人はいる。投機を批判しながら、自分自身は望むタイミングで、いくらでもいいからグレイルを手に入れたいと夢見ている人もいる。
この汚染は、もっと広く浸透している。質の悪い転売屋だけに話を限定してしまうのは、あまりに狭すぎる。
まさにそこが、このテーマを面白くしている。問題は、無垢な愛好家と悪質な投機家の対立ではない。市場の論理が、ほとんどすべての人の見方そのものを少しずつ侵食していく、その過程が見えてくるのだ。
誰もが少しずつ、作品そのものより価格で考えるようになる。記憶よりも機会で見るようになる。
だからこそ、コレクションの倫理が必要になる。誰かが道徳的に優れているからではない。あらゆるものがそれを忘れさせようとする時代だからこそ、基準をもう一度言葉にし直す必要があるのだ。
参考までに、こちらが私のコレクター倫理憲章へのリンクです

コレクションは、価値観の選択になっていく
ある地点を超えると、コレクションは単なる取得行為ではなくなる。何を上位に置くかという選択になる。
市場価値がやがて他のあらゆる価値を押しつぶしていくことを受け入れるのか。それとも、もっと厳しく、もっと確かな線を保ち続けるのか。高い作品が必ずしも敬服に値するわけではないこと。敬服に値する作品が、必ずしも過剰な価格を持つわけではないこと。そして、コレクターは自分の持つものの価値を守ろうとしながら、自らの実践をビジネスモデルに変えずにいることもできるということ。その線を保つのかという話だ。
このニュアンスこそが、状況を変える。市場の存在そのものを否定したいわけではない。ただ、市場だけが唯一の言語になってしまうのを防ぎたいだけだ。
作品について、記憶について、継承について、あるシリーズとの親密な関係について、見るという行為について、まだ語ることができる限り、すべてが失われたわけではない。だが、コレクションすることが、利益を得るためにうまくポジションを取ること以外を意味しなくなったなら、変わるのは市場だけではない。コレクションという行為の意味そのものが空洞化していく。
imacollectorが何より守ろうとしているもの
まさにそこに、私のようなプロジェクトが存在する必要がある。私は懐古主義を演じたいわけでもないし、市場の現実を否定したいわけでも、なおさらない。
私は、このシンプルなことをあらためて示すために、このプロジェクトを立ち上げた。
- 価格は思考ではない
- 相場は文化ではない
- うまく売れたことは、その作品への愛の証明ではない
物を記録し、文脈に戻し、実践の違いを見分け、歪みを名指しし、そして何より、無邪気さに落ちずに内在的価値を守ること。そこに私の意志がある。
経済的な警戒心と利益追求の論理を取り違える、その罠を拒むこと。
アニメーションアートがより可視化されていくこと自体は、決して悪いことではない。だが私にとって本当の問いは、金が他のすべてより強く見え始めたとき、視線と対象の側に何が残るのか、ということだ。
そこから先は、それぞれが自分の立つ場所を選ぶしかない。
imacollector®によって制作された記事――日本のポップカルチャーの記憶と遺産に捧げられた編集アーカイブ。
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