ゲートキーピング:セル画や動画について語る「資格」は誰にあるのか?
断られること自体は、まったく問題ではなかった。二度の「fuck off」は、さすがに別だ。Dragon Ballの歴史を扱った書籍の制作に関わった人物とのやり取りは、そうして終わった。imacollector®を立ち上げて以来、こんな言葉を向けられたことは一度もない。作品や資料を守り、伝えていこうとするはずの世界が、ときに「それをする資格があるのは誰か」を選別する側に回ってしまう。そのことが何とも不思議に思える。今回は、ときに実際以上に大きな世界であるかのように振る舞う、小さなコミュニティについて考えてみたい。
目次
Instagramのストーリーが目に留まった。続いて、もうひとつ。Dragon Ballの世界を3部構成で扱い、作画資料だけでなくアニメーターにも光を当てる本だった。imacollector®でアニメーターや制作資料を扱う機会を増やしている自分にとって、まさに惹かれる企画だった。だから、ごく自然に紹介したいと申し出た。そしてどうやら、そこで一冊送ってもらえないかと尋ねたことがいけなかったらしい。
相手は私のプロジェクトを知らなかった。一方で、私もその「huge research community」の存在を知らなかった。それ自体は、どちらについても何の証明にもならない。
驚いたのは、私が何をしているのか確認することさえしないまま、「研究コミュニティで君を見たことがない」と返されたことだった。そこで話が終わっていてもおかしくなかった。しかし、その後いくつかのボイスメッセージを交わし、最後には二度の「fuck off」が送られてきた。
正直に言えば、最初に頭に浮かんだことは、この記事ほど冷静なものではなかった。考える前に返信しかけた。それでも一度立ち止まり、なぜこのやり取りにこれほど腹が立ったのかを考えてみた。その時点で、本そのものはほとんど関係なくなっていた。むしろ、収集を続ける中であまりにも何度も目にしてきた態度を、また見たことが大きかった。小さな愛好家の世界に長くいること、人脈を持つこと、充実したコレクションを築いたことが、いつしか「誰がこの世界に入れるのか」「誰がそれについて語れるのか」「誰が参加してよいのか」を判断する権利まで与えてくれるかのように振る舞う姿勢だ。
閉鎖的なコミュニティがアニメーション資料収集を損なう理由
アニメーション制作資料を集めてきた年月も長くなり、この世界が最初に思い描いていたようなロマンチックな場所ばかりではないことは分かっている。セル画を買い始め、その後、動画や原画を集めるようになった頃は、自分の好きな作品を実際に作るために使われた驚くべき資料そのものに目を奪われていた。とはいえ、一部の資料の価格を見て、かなり早い段階で現実を知ることになった。そして時間が経つにつれて、資料以上に驚かされたのは、その周囲にいる人々だった。
もちろん、この世界で多くのことを教えてくれた人もたくさんいる。見返りを考えることなく、自分の知識を共有してくれるコレクターもいる。どのシークエンスの資料なのかを特定したり、書き込みの意味を説明したり、誰も気づかなかった間違いを訂正したりするために時間を使ってくれる。何年も交流してきた人より、フォーラムでたまたま出会った見知らぬ人から多くの助けを得たことさえある。
一方で、この趣味には別の側面もある。長く続けていること自体がステータスになり、アーティストや「whale seller」、「GOAT collector」と知り合いであることが、それ以外の何より重要であるかのように扱われる世界だ。コレクションそのものが名刺のようになり、持っている資料や交流している相手によって、その人を見る目まで変わっていく。個人的には、かなり疲れる。
そもそも、これは非常に小さな趣味の世界だ。セル画、動画、原画、絵コンテ、台本、その他の制作資料を集める人をすべて合わせても、ポケモンのコレクターや日本のポップカルチャー全体の収集人口と比べれば、ごくわずかしかいない。それでも、一部の人たちは閉鎖的なコミュニティにありがちなルールや序列を、あっという間に作り上げてしまうようだ。
- 君は誰なのか?
- 何年コレクションしているのか?
- 誰と知り合いなのか?
私は昔から、こういう仕組みが好きではない。まして、その人が何をしているのかを見るより先に、こうした問いが出てくるのであればなおさらだ。
やり取りから数日後、どうしても気になる二つの投稿を目にした。そのうち一つで、同じ人物は、アニメーションアートの集め方、楽しみ方、広め方は人それぞれであり、どのアプローチにも価値があると説明している。また、一点一点を調べ、誰が手掛けたのか、どのシーンに使われたのか、アーティストや制作について何を読み取れるのかを理解することの重要性も強調している。さらに、資料を所有することはあくまで出発点であり、本当の価値は調査し、保存し、その知識を共有することにあるとまで結論づけている。
そこについては、私もほぼ全面的に同意する。
それにもかかわらず、面識のない人物が、コレクションや制作資料、そして近年はアニメーターについても扱うメディアを運営していると伝えてきたとき、その仕事を見ることさえせず、「研究コミュニティで見たことがない」と返す。

「研究コミュニティで君を見たことがない」
このやり取りの中で最も印象に残った言葉は、おそらくこれだった。当然ながら、侮辱の言葉に次いで、だが。
限られた部数しかない本を、著者がまず自分の知っている人たちに送りたいと考えることは十分理解できる。もし私自身が少部数の出版費用を負担していたなら、おそらく同じ判断をするだろう。その点について批判するつもりはまったくない。
しかし、自分がその人を見かけたことがないという事実を、その人に正当性がないことの根拠として扱うのは、まったく別の話だと思う。
日本のアニメーションについて真剣に取り組んでいる人の大半を、私は知らない。これまで名前すら聞いたことのなかった研究者、著者、日本や海外のコレクターを今でも頻繁に知る。中には、私よりはるかに優れた仕事をしている人もいるだろう。それは十分自覚しているし、むしろ自分の仕事の価値を示しながら、自分なりの居場所を築こうというモチベーションにもなっている。
私がその人たちを知らないからといって、彼らが生み出しているものの価値が変わるわけではない。インターネットは、ときに一つの世界の全体像を大きく歪めて見せる。同じアカウント、同じグループ、同じ人々と何年も関わっているうちに、そのネットワークが分野全体を代表しているように思えてくる。さらに悪ければ、その中でも最高峰の人々だけが集まっていると錯覚してしまう。
その輪の外から誰かが現れ、そこにいる人たちがその名前を知らなければ、その人はすぐに「新参者」になる。たとえ20年間コレクションを続けていても、アニメーションの世界をそれ以上に長く知っていたとしてもだ。
日本のアニメーションのように情報が分散している分野では、なおさら不思議な考え方に思える。今でも膨大な情報が、古いブログ、雑誌、個人アーカイブ、フォーラム、アーティストの証言、個人コレクションなどに散らばっている。「研究コミュニティ」が一つだけ存在するわけではない。FacebookグループやDiscordコミュニティと同じように、そうした場は数十もあり、互いの存在をほとんど知らないケースさえある。
別の投稿では、古くからのコレクターを「the foundation」、新しいコレクターを「the expansion」と表現し、最後にはその両方が必要だと結論づけている。これについても異論はない。同じ人たちだけで、この趣味が永遠に続くことはないからだ。Instagramをきっかけに入ってくる人もいれば、オークションや展覧会から興味を持つ人もいる。そして、自分の好きなアニメを実際に作るために使われた資料を今でも入手できると知ったことが、入口になる人もいるだろう。
新しい人たちが本当にこの趣味の未来に必要なのであれば、全員が古参の人たちが見張っている入口から入ってくるわけではないことも受け入れる必要がある。

経験だけではアニメーションの専門家になれない理由
私にとって、経験は非常に重要であり、敬意を払うべきものだ。30年間収集を続けてきた人は、始めたばかりの人より多くの資料を見てきたに決まっている。他の人が知らない市場の時代も経験している。時間と忍耐を重ねなければ身につかない見方や判断力も、おそらく持っているだろう。
私はそういう人たちの話を聞くし、質問もする。その知識に驚かされることもある。ただ、その経験がなぜ、新しく入ってきた人や他の誰かを見下す権利に自動的につながるのかは、今でも理解できない。
誰にでも、ほとんど何も知らないところから始めた時期がある。もちろん私もそうだった。初心者なら誰でもそうであるように、目の前にあるものを十分理解しないまま資料を買ったこともある。明らかに高すぎる金額を払ったこともある。人の言葉を信じたこともある。そして今でも、毎日学び続けている。
ここまで学んでこられたのは、「自分の時間を使う価値がある人間だ」と証明するよう求めることなく、私の質問に答えてくれた人たちがいたからでもある。
古参のコレクターに、新しく来た人全員の先生になってほしいと言っているわけではない。誰にでも答える義務などない。ただ、経験と優越性を同じものとして扱うのはやめた方がいいと思っている。

アニメーション資料収集:希少性だけでは価値は決まらない
長年コレクションを続ける中で知った、あまり気持ちのよくない事実の一つかもしれない。驚くほど充実したコレクションを持っていても、それについて語れることがほとんどない場合がある。数千ユーロもする資料が、その価格や希少性、欲しがっている人の多さだけで紹介されているのを何度も見てきた。
逆に、もっと控えめな資料しか持っていなくても、一枚の絵のどこが面白いのか、どのシーンのものなのか、修正から何が読み取れるのか、そしてなぜそれを手に入れたかったのかを20分でも話し続けられるコレクターにも出会ってきた。
どちらの会話が記憶に残るかは、私の中でははっきりしている。
Instagramやオークションでアニメーションアートが目立つようになったことも、状況を改善したとは言い難い。魅力的な一枚を手に入れれば、すぐに注目を集められる。今ではコレクション全体が公開されたショーケースとなり、一点増えるたびに所有者自身のイメージまで強化されていくことがある。
コレクションを見せること自体を批判しているわけではない。私自身も公開しているし、それでもオンラインに出しているのは自分のコレクションの5%にも満たない。問題だと感じるのは、所有していること、オンラインで目立っていること、特定のコミュニティに属していることが、いつしか知識や能力の代わりとして扱われ始める瞬間だ。
特定のアニメーターやコレクターと個人的に知り合いだからといって、自動的にアニメーション史の専門家になれるわけではない。ただし、非常に貴重な情報にアクセスできる可能性はある。だからこそ、その情報をどう尋ねるかを知り、コレクションを増やすことだけを目的にしない姿勢も必要になる。
もう一つ、その投稿の中で気になった部分がある。古くからのコレクターの考え方として紹介され、本人も同意しているものの中に、「価格は今後も上がり続ける必要がある」「市場に流動性をもたらすためには投機家や仲介業者が必要だ」という主張がある。この考え方については、かなり疑問を感じる。
一枚の絵やアニメーターの仕事が評価されるために、いつから価格の上昇が必要になったのだろう。原画が500ユーロから5,000ユーロになったからといって、文化的な重要性まで10倍になるわけではない。そしてアニメーション制作資料について「market makers」や流動性という言葉を使うことは、まさに金融市場の語彙をこの趣味に持ち込むことになる。それは当初から、私が強い違和感を覚えてきたことでもある。
その数行後で、アニメーションアートをポケモンカードとは異なるものとして位置づけ、いつかこうした資料を美術館や博物館に収蔵してほしいと語っていることを考えると、なおさら奇妙に感じる。
需要と希少性によって価格が上がることは理解できる。コレクターが、本来の価値を下回る金額では売りたくないと考えることも理解できる。このテーマについては、私自身も何度か書いてきた。私がより気になるのは、価格が上がり続けることを、アーティストが評価されるためのほとんど当然の条件として扱うことだ。


アニメーターは新たなトロフィーではない
imacollector®を続ける中で、私自身もこのことを以前より考えるようになった。もっと多くのアニメーターに会いたい。その仕事について話し、歩んできた道を知り、私たちが集めている絵の背後にいる人たちの名前を、もう一度きちんと結びつけたいと思っている。
少しずつそうしたつながりも生まれ始め、その機会がどれほど恵まれたものなのかも実感している。だからこそ、その関係によって実際に何を記録できるのか、自分の仕事に何をもたらしているのかを常に考えるようにしている。
一方で、人によっては、誰かと個人的な知り合いであることを繰り返し示せる点にしか価値を感じていないように見える。私にとって、それにはほとんど意味がない。アニメーターの仕事を守りたいと語りながら、同じアニメーターを自分のステータスを示す材料として使うのは、むしろ矛盾しているように思う。
アーティストは、連絡先に加える電話番号でも、コレクションに加える新しい一点でもない。
扉を閉めることと、相手の目の前で叩きつけることは違う
すべてにアクセスできるわけではないことは、十分理解している。非公開のままにしておくべきものもあれば、公開できるようになるまで時間が必要なものもある。コレクターが一部の資料を個人アーカイブとして非公開にすることもあるし、アニメーターが「これは公表しないでほしい」という前提で情報を話すこともある。
特別扱いを求めているわけではない。連絡した相手全員から良い返事がほしいとさえ思っていない。
今回のやり取りなら、次の一言だけで十分だった。
「申し訳ありませんが、用意できる部数はプロジェクトの協力者向けに確保しています。」
それで話は終わっていたはずだ。おそらく私は、後になって自分でその本を買っていただろう。依頼を断ることは何もおかしくない。ただ質問しただけの相手に腹を立てることは、それとはまったく違う。
このプロジェクトが嫌いだから記事にしたわけではない。むしろ、その目指しているものに強く共感したからこそ書いている。ただ、それをどのような姿勢で届けているのかを見た以上、作品そのものの出来がどれほど良くても、私は今回は距離を置く。
作品への敬意、アーティストへの敬意、そして調査や研究への敬意がこれほど頻繁に語られる趣味の世界で、人と人との間にある最も基本的な敬意だけが、ときに「あってもなくてもよいもの」になってしまうのは残念だと思う。



